其の一『日舞のふりだ!! 舞踏はナンダ!!』

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其の一『 日舞のふりだ!! 舞踏はナンダ!! 』



 麿さんとは以前に対談させていただいたり、テレビでもお話を伺ったりしていますが、久しぶりの対談になるわけです。
まずは日本舞踊は能や歌舞伎や民俗芸能などを取り込んできましたが、時には洋舞まがいのものまで入り、雑多すぎてしまって、今日本舞踊独特のものはなんだっていうのがわからなくなってきている。今行き詰まっている。

麿
僕なんかも似たようなもんです。
歌舞伎でもないし、クラシックでもねえし。


そんななかで麿さんの大駱駝艦には非常に刺激を受けていて。
ダンスとも違いますしね。
 
麿
まあ広い意味ではアフリカ辺りのダンスや、民族舞踊とかだってもっと色々あるわけでしょ。
基本的なところはエネルギーの鼓舞であったり、全ての力を自分に宿すとか、そういうところはあるわけでしょ。
形のなかに、全てがあるわけでしょ?


それが形が綺麗になりすぎてエネルギーや魂まで掘り起こせなくなってしまっているっていうのが、問題になっています。

麿
アナログ。
デジタルではなくて直接身体と自然と触れ合う。
そういう緊張感はあっていいかな。
そういうものと関わるセンサーとどうかかわっていくかということが色々ありますね。そういうことは基本的にはみんな一緒だと思いますがね。
ただ、体系的に整備されすぎたというのはあるかもしれない。


そこが強みでもあるんですけど、物を創っていくときに凡そ900種類の作られた振りから組み合わせてやっていかなければいけない。
でないと日本舞踊から逸脱してしまうというところが、あるんですけれども、麿さんのところの独得の動きや考え方はどのような処から生み出されているかというか、そのへんのことを伺いたいなと思ってるんですけど。

麿
何かを見て怖いなら怖い、怯えるなら怯えた顔をしろとか、怯え方がおかしいんじゃないかとか、もうちょっと身体にきたらどうするとか…。
そういう生なものがありますよね。
生なものをパックするというか、捕まえる。僕も結構カタチは追っかけるんですよね。


それが鋳態鋳型するということですね。

麿
連続の形として見ると何でもないことだけど、一つ一つの一瞬をもってきて組み合わせたり運んだりということをやる。
それがどうビビッドに体に反応するか。それこそ型がないからもっと個的になってきますよね。
それぞれ育った場所でも違うし。
東北の方はどっちかというとぼわっとした踊り方だったりね。
そういう違いもありだろうし。
日本中平均化してくると、そういう特長は少なくはなってはきてますけど。
人間のやることはそんなに変わらない。「あ」を「き」とは言わないだろう。
世界に共通するなにかがあるじゃないですか。
そういう感情的なものもカチっカチっと鋳型にしていく。


驚きなら驚きという感情を鋳型にしたとしますね。
その一回目驚いた時の生々しい新鮮なイメージがあったとして、それをずっと新鮮に保っていく作業っていうのが大変でしょ。

麿
その危うさが今度、また別の要素として出てくる。
まず最初のイメージを生け捕りにしたままやって、それがどこか消えてしまっていく、逃げちゃうこともある。
それもまた、逃げちゃったという鋳型をつくったりもする。
また忘れるときさえも、何かと出会うエネルギーもあれば、何かと別れるエネルギーもあるわけじゃないですか。
同じようなもんなんですよね。
そこにも一つの作用がある。そういう面白みがある。


その感覚がいいですね。
われわれだと、戒められたり罰せられたりしますからね。

麿
お能の高齢の方がこう(小刻みに顔を振る)出てきた時はショックでしたよ。
高齢で発作がでられたそうなんですが。
型があるからこそ、これも驚きになる。でも素人が見るとそっちの方が凄いやられたと思いましてね。
そういう一つの手法もあるのかと一瞬錯覚しますからね。

二人(笑)

麿
それが何故できないのかというのが、伝統の厳しさというか。
形がビシッとあるものに、何かが作用をしている。僕は音楽でもシンコペーションが好きなんです。
もちろん伝統的な言葉もいっぱい使わしてもらってるんですけど。
先人のものを借りてきてちょっといじくるのも僕の癖でね。
世阿弥さんが偉いのは分かってるけど、こんな場合はどうすんだ、みたいなね。
正当な解釈かはそんなの全然間違っているかも知れないけど、いいとこ取りはさせてもらっている。
基本的には荒唐無稽なものだというのが僕の中にあるから。芸事なんかは特にね。
だからそれは許されると思っている。


日本舞踊の900ある振りはおそらくもっと他にも人間の色んな動きがあるのを、打ち捨てて打ち捨てて選んでいって900になったんだろうと。
麿さんが以前、この壺中天(稽古場兼小劇場)には流産した子供がいっぱいいるんだよということをおっしゃった。それが私にはショックだったんだけれど。
きっと日本舞踊の900というものも、もとは万も二万もあったんだろうと思うんですね。
すると麿さんの動きを見ていると、私達が流産したり打ち捨ててしまったものにこういうものもあるんじゃないかということを凄く感じるんですね。
900では表現しきれない世界がある。

麿
900というと相当の数だと思うし、充分じゃないですか。


そうなんですけどね(笑)

麿
例えば喜怒哀楽の中での表し方があるとして、僕の場合は病気の鋳型とか、職業的な鋳型とか、そういうのも複合していく。
何かの作用だったり、お岩さんじゃないけど、体が毒に犯されたりというのもあるだろうし、何でそうなるのかは分からないけれども、様々なことが当然入ってるわけですよね。
こうなる(幽霊の手をつくる)のは日本では当たり前のコンセンサスで、こういうことが何故普段と違うかという怖さはありますね。それ自体が不思議な形ですよね。
幽霊とか勉強しなくても何かおかしい。全て入っているような気がして。
例えば袖の一つの使い方とか、月との関係とか、それも面白い形で、ギャグもふくまれていて、一種の禅問答的な形、金だらいに月持ってこい。はい、映りましたみたいな。
そういうものはかなり僕も頂いているんじゃないのかな、自然に。それは先人の知恵だな。


江戸の感覚というか。
着物を着ているということとか、江戸の見立て、物真似、洒落というものによって組み立てられた振りが日本舞踊には多いんですよね。
例えばおっしゃられた幽霊も今の洋服の人が、まさかこう(幽霊の手振り)はしないと思う。
麿さんのところで幽霊がでてきたときにこうはしないでしょ。

麿
やっちゃいます。むしろ。

(大笑)

麿
新鮮でね。何故かって誰も分からない。
不思議なんです。力が入ってんだか何だか。
そういう形の不思議さ。何故そうなるか、発明した人はすごいですね。
僕は能も日本舞踊もやったことがないけど、知らないで見たりしてるとやはり不思議なもんですよね。
そういうなものをやっていくと、やはり異常者の感覚を増幅していったようなもんですよね。何が今異常か。
何もこっちが正常でこっちが異常という訳ではなくて、同じ地平でああいうことが行われていること自体がおかしいんですよ。
わからない。不思議ですよね。

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